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あの人に迫る

岡崎恒子 「岡崎フラグメント」発見の名古屋大特別教授

写真・加藤晃

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◆両立が大変でも研究諦めないで

 高校の生物の教科書で特集を組まれるほど有名な「岡崎フラグメント」を、夫(故人)とともに発見した名古屋大特別教授の岡崎恒子さん(83)は女性研究者の先駆けだ。ノーベル賞候補にも挙げられる伝説的な「リケジョ」(理系女子)に、女性ならではの苦労や後輩たちへのメッセージを聞いた。

 −自然科学に関心を持ったきっかけは。

 子どものころ、医師だった父の病院に遊びに行き、顕微鏡でいろいろなものをのぞいていました。父は治療に使う抗生物質を使って、細菌が死んでいく様子などを見せてくれ、生きものの仕組みはすごいんだと、子ども心に感動し、自然科学に興味を持つようになりました。

 −女性がほとんどいなかった科学者の道を選んだのはなぜですか。

 父は私を医者にしたがったのですが、医者はとても人間付き合いが大切な仕事。人付き合いがあまり得意ではなかった自分の性格では、向いていないと思いました。だから、興味があった生物学の道に進んだんです。今は「生命科学の時代」ともいわれて、生物学科の卒業生は就職先がたくさんありますが、当時は違いました。研究者や高校の先生ぐらいしか就職先がありませんでした。

 −在学中に夫であり、研究パートナーである令治さんと出会いました。

 私が大学院に進学した一九五六(昭和三十一)年春に結婚し、同じ研究室で夫と共同研究を始めました。夫は研究しか頭にないような人で、とにかく毎日、研究で忙しかったですね。娯楽といえば、夫が大好きな大相撲の中継を見るために、テレビのあるうどん屋さんによく行ったことぐらい。当時は自宅にテレビがありませんでしたから。まだまだ日本が貧しい時代で、研究環境も貧弱でした。研究室は木造で、伊勢湾台風で雨漏りし、大切な資料もダメになって。試薬を買う研究費がなく、自分のお金で買うこともありました。

 −その後、夫婦で渡米しました。

 氷川丸で渡米し、ワシントン大とスタンフォード大に留学しました。スタンフォード大では、ノーベル賞受賞者のアーサー・コーンバーグ教授のもとで研究に取り組みました。お金の心配をすることもなく、とても恵まれた研究環境でした。日本では当時、女性研究者は一人前として扱われずポストも冷遇されていましたが、米国では女性も一人前の研究者として扱われ、そのことが、とてもうれしかった。三年後、夫が名古屋大助教授として帰国することになったとき、女性が活躍しやすい米国にとどまりたいという思いもありましたが、夫と一緒に帰国を決めました。

 −出産後の育児と研究の両立は大変でしたか。

 帰国して、三十歳のときに長男が生まれました。夫は典型的な昔の男性で、家事がまったくできない人。育児や家事と、研究の両立は大変でした。今と違って、働きながら子育てする母親の支援が整っていない時代。お母さん仲間たちと、保育園の充実を求める運動をしたこともあります。朝、長男を保育園に預けて研究室に。夕方、保育園が閉まった後は、やむなく長男を研究室に連れていきました。室内に大きな段ボール箱を置いて、子どもをその中で遊ばせ、研究してました。四十歳のときには、長女が生まれました。

 −七五年に令治さんが他界しました。

 夫は終戦の年に広島にいて、被爆し放射能を浴びていました。亡くなる二年ほど前、皮膚に出血が見つかり、原爆後遺症の白血病と分かりましたが、当時は有効な治療法がありませんでした。夫は病をおしてカナダの学会に出張し、帰国後まもなく亡くなりました。最愛の夫であり、子どもたちにとっての父親であり、研究室の頼れるボスを失いました。小学六年生の長男と二歳半の長女を抱え、ぼうぜんとなりました。研究を諦めるか悩んでいたころ、恩師のコーンバーグ先生から一通の手紙が届き、「決して研究をやめないように。名古屋の研究成果を、世界中が期待して待っている」とあり、本当に励まされました。先生の手紙がなかったら、研究を諦めていたかもしれません。

 −仕事と家事育児の両立について、後輩の女性研究者へのアドバイスはありますか?

 あまりに忙しくて、非常に苦しいときもあると思います。でも、まずはギブアップしないというのが大事なことだと思うんです。本当に苦しい時期、大変な時期は、実はそれほど長くは続きません。苦しい時期を通り過ぎれば、子どももある程度は大きくなって、あまり手がかからなくなります。研究者は厳しい世界で、一度仕事を中断してしまうと、ポストが埋まってしまって復帰が困難になりがちです。今は大学や研究機関も、当時に比べて働く女性を支援する仕組みを整えています。休んだり、勤務時間を減らしたりしながら、なんとかキャリアを中断せずに、一番大変な時期を乗り越えることが大切だと思います。

 −女性の活躍の場をさらに広げるには。

 出産や育児で仕事を休んだり、減らしたりしても職場に復帰できる態勢が望ましいと思います。保育園など、母親を支援する仕組みも大切です。そういった社会的なサポート以上に、家族や周囲の人たちの理解も重要だと思います。親兄弟などから「子どものために、仕事をやめたら」などと言われると、精神的にこたえるんですよね。「育児や家事は女性の仕事」という意識を、多くの人が変えていく必要があると思います。娘は今、スウェーデンで暮らしていますが、あちらでは「男も家事や育児を担う」のが当然で、子どものころから、そう育っている。だから男性は当然のように育児をするし、家事もできる。料理だって上手。日本のお母さんたちも男の子を育てるときに、自然に育児や家事をできるようにしつけることが大切だと思います。

 −経済的に余裕がない若い研究者のために、給付型奨学金は重要ですか。

 以前、奨学金がもらえない大学院生に、私が個人的にポケットマネーで援助していたことがあります。今の貸与が中心の奨学金制度では、社会人になったときに、すごい金額の借金を背負ってしまう。だから若く有能な人たちを伸ばすためには、奨学金は貸与でなく、給付すべきです。世界ではそういう国が多いし、人材育成という点で非常に大切なことだと思います。

 −自然科学の研究を志す若者たちに、メッセージはありますか?

 自分が考えている以上に自然の仕組みは非常に巧妙だと思います。まだまだ分からないことがたくさんある。そして、今の研究者のみなさんは、私の時代よりも、ずっと学問的に進んだことを研究してらっしゃいます。研究をするというのは、自分が疑問を持ち、自分が「解き明かしたい」と思うことが出発点。誰かにいわれてやるものじゃない。まず、自分が何を探求したいか考え、その上で仲間や先生など、いろんな人とよく議論して研究を進めていくことが大切だと思います。

◆あなたに伝えたい

 研究をするというのは、自分が疑問を持ち、自分が「解き明かしたい」と思うことが出発点。誰かにいわれてやるものじゃない。

 <おかざき・つねこ> 1933年、名古屋市生まれ。名古屋大理学部生物学科を卒業し、同大大学院に。在学中に研究者だった3歳上の令治さんと知り合い結婚。その後、夫婦で渡米し、スタンフォード大などで生化学の研究に従事。63年に令治さんが名古屋大助教授として呼ばれ、自身も研究室の助手に。2人の子を育てながら、夫婦で研究に励んだ。68年には「岡崎フラグメント」の論文を発表し、世界に衝撃を与える。だが令治さんが、広島の原爆で被爆したことによる後遺症で白血病を発症し75年、44歳という若さで亡くなる。一時は研究を諦めるか悩むも、育児をしながら研究を完成させる。83年、名大教授。86年、中日文化賞。2015年に文化功労者。

◆インタビューを終えて

 DNAの二本の「鎖」が複製(コピー)される際、一本の鎖では、まず短いDNA断片が数多く作られ、あとで連結して複製される。この断片は岡崎夫妻の名前をとり、「岡崎フラグメント」と名付けられた。

 「女は家を守る」ことが当然だった時代。育児や家事をしながら、DNA複製の謎を解き明かす世界的な研究を成し遂げた岡崎さん。だが誇るようなところはまったくなく、少女のような瞳で自然の巧妙な仕組みを語る姿が印象的だった。

 自然科学の魅力に胸を躍らせるのは、男も女も一緒だ。岡崎さんに続く、多くの「リケジョ」が活躍してほしいと思う。

 (坪井千隼)

 

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