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あの人に迫る

梶田宙 高知ファイティングドッグス球団社長

写真・野村和宏

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◆選手に夢追う場 地元には活力を

 プロ野球選手になる夢を追って四国に渡った若者が十年後、球団社長に転身した。独立リーグ、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス球団社長、梶田宙さん(34)。育ててくれた第二の故郷への恩返しとして、野球を通じた地方の盛り上げに情熱を注ぐ。

 −社長に就任して三年目。普段はスーツではないのですか。

 シャツにこのチームジャンパーを着ていることが多いですね。左胸にファイティングドッグスのマークが付いているので、これを目立たせてスポンサー営業に回っています。昔はシャツの第一ボタンが留まらなくて首が苦しかった。現役のころよりも細くなったねと言われます。本当は体を動かしたいけど、まだ余裕がなくて。

 −大学を卒業後、愛知からどんな気持ちで高知に来たのですか。

 夢と希望しかなかった。絶対にプロ野球選手になるんだっていう気持ちで来ました。大学では故障して四年生まで試合に出られず不完全燃焼だった。ちょうど四国アイランドリーグができると、チームメートが教えてくれたんです。プロになる可能性がゼロでないなら、もう一度挑戦したい気持ちになった。地元企業から内定をいただいていましたが、断りを入れました。トライアウトでは学生時代で一番いいプレーができ、最終テストも通った。受かったのは百人。香川で一カ月キャンプして監督らがドラフトするんです。選ばれたのがたまたま高知。大学の先輩がいたので高知に行きたいと思っていた。振り返れば、それで人生が大きく変わりました。

 −未知のリーグで不安はなかったですか。

 未知数でも僕らは信じていた。プロに行けるだろうという気持ちがあり、向上心があった。環境は厳しかったです。月給は十数万円とわずかな食事補助でここから家賃を支払う。最初は一、二年で切りをつけようと思っていた。リーグそのものが軌道に乗らず、一年目より二年目が大変だった。全体に給料ががくんと下がり、成績の歩合制になった。地域のお店が二百円や三百円でご飯を提供してくれる支援のおかげでやることができた。

 練習や試合ではプロのスカウトの目が気になり、秋のドラフト前は毎年不安でした。三年目が一番チャンスだったと思います。前半戦の打率は三割を超えていたが、後半戦に伸び悩んだ。

 −十年間現役を続けられたのはなぜですか。

 五年目くらいまでは、まだチャンスがあるんじゃないかと思っていた。その先は、高知で応援してくれる人が増え、その人たちのために一人の野球選手としてプレーしようと切り替えた。個人では珍しいスポンサーも付いてくれた。自分の成績とチームの成績を、どこまで残せるかを考えながらやった。応援してくれる人がいて、野球のできる環境があった。僕を必要としてくれ、球団に残してもらえたのがすべて。九年目くらいから「ミスターアイランドリーグ」と呼ばれるようになった。最後はけがをして、思うように動けなくなって引退を決めた。引退試合では、名前と背番号の入ったボードを手にたくさんのファンに応援してもらった。

 −引退前にオーナーが次期社長に指名しました。

 最初は冗談と思い、「自分には無理です」と言いました。それでも「梶田だったらできる」と言われ、やることに決めました。十年間、選手として過ごし、ファンやスポンサーに名前を覚えてもらった。育ててくれた高知のために、ここでもう少し恩返ししようと思いました。でも、急に社長になり、社会人経験もないので最初は戸惑うことばかりでしたね。パソコンも打てない、名刺の渡し方、言葉遣いも叱られてばかり。社員七人の小さな球団なので、自分も率先してスポンサー集めをします。半年で三百万円くらいを集めたのは少し自慢です。「梶田が頑張っているから出してあげるよ」と言ってくれた人もいる。うれしかったですね。

 −今季はメジャーリーグで555本塁打を放ったマニー・ラミレス選手の入団に沸いています。

 大スターを高知で見られることに自分もワクワクしました。今まで野球を見たことがなかった人にマニーのようなスター選手が来ることで興味を持ってもらい、足を運んでもらえればうれしい。開幕戦は昨年の倍の二千人が訪れるなど効果も出ています。マニーは既に四十四歳ですが、少年のように心から野球を楽しんでいる。そうした姿勢は、ほかの選手の刺激にもなっている。

 一昨年は高知出身の藤川球児投手(現阪神)が在籍し、過去にない盛り上がりだった。東京や大阪など県外からも見に来たりと、高知に人を呼ぶのに一役買っています。ただ、スター選手は一過性になりがちなので、地域に根ざした活動を続けることが第一だと考えています。

 −例えばどんな活動をしていますか。

 チームは二つの町とホームタウン協定を結んでいます。越知町には練習グラウンド、佐川町には選手寮があります。選手が幼稚園児と田植えや農作業を一緒にするなど地域と深く交流しています。農業には、自分が現役のころから力を入れていて、牛を飼っていたこともあります。

 ほかには、選手やトレーナーが小学校の体育の授業に出向き、走り方や投げ方を教えることも。今の子どもたちは走ることや投げることが分からない。越知町では体力テストの数値が全国平均以下でしたが、教えるようになって平均を超えました。

 −社長としての目標はありますか。

 野球を通じて、海外からも人を呼びたい。米国の学生やアフリカの代表チームに高知でキャンプをしてもらい、ファイティングドッグスと試合することを始めています。韓国では大学を卒業後、野球を続けたくてもプロ以外に受け皿がありません。アカデミー事業として野球をやれる環境を提供したい。地元の小学生を対象にしたバッティングスクールも去年始めた。国内では野球人口が減っているので、高知から増やしていきたい。

 選手たちは一人でも多く、日本野球機構(NPB)に行ってほしい。今の若い選手たちには貪欲さが足りないと感じる。自分が高知に来たときはもっとハングリーだった。入団三年目の二〇〇七年秋に球団がなくなるかもしれないと、ユニホーム姿で街頭に立って募金を集めた。せっかく夢を追える場所があるので、この環境を当たり前と思わずに夢を追い掛けてほしい。

 引退した年に高知の人と結婚をし、今は高知に骨をうずめる覚悟でいます。最初に高知に行くことを反対された母親には、今では「高知の人になってください」と応援してもらっています。ここへ来ていい人生を経験させてもらった。世界中のどこよりも愛される球団を目指し、社員や選手を幸せにするのが自分の目標ですね。

◆あなたに伝えたい

 高知で応援してくれる人が増え、その人たちのために一人の野球選手としてプレーしようと切り替えた。

 <かじた・ひろし> 1983年、愛知県一宮市生まれ。愛知・享栄高から愛知大。右投げ右打ち、外野手。享栄高時代は3年春に主将として選抜大会で甲子園に出場。愛大でも4年時に明治神宮大会に出た。2005年に創設された四国アイランドリーグのトライアウトに合格し、高知ファイティングドッグスに入団。開幕戦は2番左翼手で先発し、リーグ初安打、初盗塁、初得点を記録。初年度にリーグ優勝を果たす。チーム在籍10年目の14年9月に引退。650試合出場、打率2割5分5厘、529安打、22本塁打の成績を残す。背番号「0」はリーグ初の永久欠番となる。引退後の同年11月、元選手としてリーグ初の球団社長に就任した。

◆インタビューを終えて

 開幕前、高知県で行われた練習試合を訪ねた。米大リーグの元スター、ラミレス選手の公式戦初先発に沸く観客席で七十代の地元ファンに梶田さんのことを聞いた。

 「チュウ(愛称)は、いい選手だったよ。応援したくなる選手だったし、今は社長で頑張っているみたいだね」

 決してまばゆい輝きではなかったが、引退から二年以上たってもファンの心に「球団の顔」として刻まれている。「十年間球団に残してもらい、その恩返しがしたい」と語った。第二のキャリアに向けられた熱く、真っすぐなまなざしは野球少年のそれと変わらなかった。

 (平井良信)

 

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