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あの人に迫る

村田吉弘 菊乃井主人

写真・佐伯友章

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◆無形遺産の和食、だれもが継承者

 こわもてながら人懐こい笑顔。料理番組でおなじみの村田吉弘さん(65)は、和食の国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産の登録に料理人として力を尽くした。老舗のぼんぼん時代から「公利」を重んじて変革を恐れず突き進む現在まで、柔らかな京都弁で語ってもらった。 

 −京都の老舗料亭の跡継ぎとして生まれました。

 うちは二十二代前に大坂城から北政所に付いて、高台寺に上がった茶坊主。三代前から料理屋に変わった。生まれた時から、料亭を継ぐのは当然という感じで育った。大学時代は真っ黄色のスカイラインGT−Rに乗って、ぼんぼんもええとこ。ゴルフ部と民青(日本民主青年同盟)に入った。対極やねんけど面白そうやなあと。民青で活動するうち、国や行政に対して批判的な目を持つようになった。金持ちしかうまいもんを食べられへんという世の中はダメや、という気持ちはその頃からずっとある。

 −転機はフランス留学ですね。

 おれの人生を勝手に決めるなと思った。フランス料理のコックになると言ったら、おやじは「好きにせえ」と。パリのホテルの屋根裏部屋に住んで、毎日大学の学食で食べた。フランス人の学生に「日本料理はそばも天ぷらも食べたけど栄養失調になる」と言われ「日本にもコースで成立する質の高い料理がある」と言い返した。なんでこんなに必死で日本料理のこと言うのかなと矛盾に気付くわけやな。

 そのころ公園で、赤ちゃんに豆腐みたいな白い物をあげてるお母さんがいて、尋ねると、子羊の脳みその塩ゆでだった。こんなもん離乳食で食べてるやつらに、おれは一生勝てんかもしれんと思った。日本料理もばかにされて差別も歴然とある中、日本料理を世界に認めてもらうことを仕事にしようと思った。

 −日本料理の道を歩み始めました。

 帰国しておやじに「すいません、日本料理やります」と言ったら「半年で前言翻して帰ってくるとは何事や」と灰皿をぶつけられた。それから名古屋の料亭に修業に出た。それまで包丁も持ったことがなくて、初めは「料亭の息子やのにそんなこともでけへんのか」と言われて。三年で京都に戻り、菊乃井木屋町店を開いたけど、お客さんが一週間ゼロとかあったよ。暇だから当時の料理書は和洋中読みあさった。それが糧になった。

 ある日別の料亭の先代に、おやじのレシピの木の芽和えを出して「甘いと思うんですけど、どうですか」と聞いたら「あほちゃうか。おまえがうまいと思うもん出してお客さんに感想聞いて勉強させてもらえ」と。それで吹っ切れて、外国の料理本を見ながら真空機でかもロースを作ったり、卵を冷凍して卵黄だけ固めてみそ漬けにしたり。変わったもんばかり作ってたら京料理に新風を吹き込むと言われ始め、三年で予約の取れへん店になった。

 三十代半ばで初めて料理本を出した時、おやじが「俺を抜きよった。えらい料理人になりよるやろなあ」と言ったらしい。うれしいとは思ったな。

 −日本料理を国内外で発展させるため「日本料理アカデミー」を設立し、ユネスコ無形文化遺産登録にも尽力しました。

 若い時に出会った京セラの稲盛和夫名誉会長の影響も大きい。公利に根ざした仕事をしたいという思いがあって、何か物事を決める時は「私心清なるか。公利はあるか」と考える。

 フランス人のシェフの友人に「日本料理の無形文化遺産の登録を旗を振ってやるべきや」と言われて動き始めたころ、東日本大震災が起き、韓国が宮廷料理でユネスコに申請を出したと聞こえてきた。えらいこっちゃと、京都府知事に相談したことがきっかけでやっと国も動きだした。ユネスコ大使に何回も会いに行ったよ。

 みんな文化遺産になって当然と思ってるけど、「遺産」の登録。滅びかけてるから何とかせなあかんと言いたい。おせちも作らないし、百貨店でも買わない、祭りのごちそうも作らんでいいとなったら、結局文化としての食はなくなる。ぼくらの高級料理を登録したのとは違う。おばあちゃんの作ってくれたおいしい田舎料理を、孫のあなたも習うことが遺産の維持継承になる。自分が遺産を守る一員だと意識してほしい。コロッケがおかずなら、サラダとスープでなく、おひたしとみそ汁と漬物で和食定食になる。だしを引いて本格的な料理を作れと言ってるんじゃないんです。

 −あらためて、日本料理の良さとは何ですか。

 世界の料理は脂質を中心に構成されているけど、日本料理だけは昆布にあるグルタミン酸やかつお節のイノシン酸といったうま味成分が中心。うま味のカロリーはゼロで懐石料理は六十五品目で千キロカロリー。フランス料理は二十五品目で二千五百キロカロリー。世界の料理がヘルシー志向になる中で、日本料理が今後のトレンドになるのは自明。今、フランスやイタリアの三つ星レストランで昆布が厨房(ちゅうぼう)にないところはないやろう。

 メッセージ性も高い。例えばサバのきずしは、秋ならそれなりの器に三切れほど載せて、柿のなますを添える。そこには「秋も深まってきたからサバもおいしいし、柿も旬ですよ」というメッセージがある。見た目もきれいで季節にも合ってサバがおいしくて、初めて日本料理なんや。

 −料理人の醍醐味(だいごみ)は。

 一回の食事は、食べたらなくなる一瞬の芸みたいなもん。でもその人の心に一生残るような食事を作りたい。若い時は「どや、うまいやろ、参ったか」と挑む感覚だったけど、お客さんは楽しい時間を過ごしに来ると気付いた。「ゆっくり話せたしおいしかったわ、ありがとう」の言葉には「ええ時間を過ごさせてもらった。明日からまた頑張るわ」が含まれる。それを提供するのが僕らの仕事。だから普通の人が普通に働いて一年に一度、何かの記念日で行きたいと思ってもらう店でありたい。世界で一番安い三つ星になりたい。

 −今後の目標は。

 アカデミーでは今、日本料理の体系的な教科書「日本料理大全」を作っている。これが完成すると日本料理の検定ができる。すると地方の温泉旅館で働いていようが、京都の老舗料亭にいようが、勉強した者が正しく報われる公正な業界になる。後進の指導も心配だし、やりたいことも多いけど、引き際も肝心や。

 若い人には、やる前からあきらめてたら何もできへんと言いたい。文化遺産登録も無理という人がいたけど実現した。どんな革命も一人から起こるねんで。一人が何か思って口に出すことで、賛同者が出てきて一つの塊となって物が動く。宇宙は正義で動いてんねん。ほんまに正しいことであれば天の助けもある。

 −美食の人生と思いますが、最期に食べたいものは。

 古漬けの田舎漬けのたくあんと白い飯やな。あの発酵臭やぬかの香りはどこの国でも嫌がられる。日本人しか食べられんやろな、これがうまいと思う自分がうれしいなあって。ダイコンは大きい根と書く。日本人のおかずの大根(おおね)なんやな。

◆あなたに伝えたい

 その人の心に一生残るような食事を作りたい。若い時は「どや、うまいやろ、参ったか」と挑む感覚だったけど、お客さんは楽しい時間を過ごしに来ると気付いた。

 むらた・よしひろ 1951年、京都市東山区の老舗料亭「菊乃井」の2代目の長男として生まれた。「有名なわんぱく坊主で、清水寺の石垣を登ってはしご車に助けてもらったこともある」という。留学を経て立命館大を卒業後、名古屋の料亭「か茂免」で修業。76年に菊乃井木屋町店を開き、斬新な京料理で注目される。93年菊の井代表取締役。2004年に赤坂菊乃井を開店。NPO法人「日本料理アカデミー」理事長。13年和食のユネスコ無形文化遺産登録の立役者でもある。料理番組の出演から食育活動、機内食の監修まで多彩に活躍。京都と東京の3店でミシュランガイドの星を計七つ獲得している。著書多数。12年現代の名工、13年京都府文化功労賞。16年日本遺産大使。

◆インタビューを終えて

 取材前の三月半ば、プライベートで母と菊乃井本店を訪れた。恥ずかしながら人生初の料亭。母の古希祝いも兼ねた。

 懐石は、祝いの席用の紅白のなますと赤飯で始まった。桃色に炊かれた酢飯と白魚のおすし、「春丘仕立て」と名付けられた木の芽も鮮やかなハマグリの蒸し物。どの料理も凝った器に絶妙のおいしさ。目に舌に「もうすぐ春ですよ」と告げていた。

 店を出るとまだ肌寒かったが、心はポカポカ。母のとびきりの笑顔で幸せな気持ちになった。「一番大事にしてるのは、お客さんに喜んで満足して帰ってもらうこと」と語った村田さんの神髄に触れたひとときだった。

(芦原千晶)

 

 

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