トップ > 特集・連載 > あの人に迫る > 記事一覧 > 記事

ここから本文

あの人に迫る

青木一博 社会福祉法人よさのうみ福祉会理事長

写真・横田信哉

写真

◆障害に関係なく働き、暮らす町に

 破綻した町のリゾート施設を立て直したのは、素人の社会福祉法人だった。京都府北部、与謝野町の「よさのうみ福祉会」。障害のある人も働き、暮らせる地域をつくろうと、半世紀以上にわたり取り組みを重ねてきた。「住民の願いと福祉の思いが一致したことで、地域を元気にする取り組みが進んでいる」と理事長の青木一博さん(65)は話す。

 −リゾート施設「リフレかやの里」は客室とお風呂のほか、レストランもあります。青菜のおひたしや、ばらずし…素朴でヘルシーなランチバイキングが人気とか。

 地元の野菜や魚介類をできるだけ使っています。五年目が過ぎ、売り上げが年間約四千三百万円あるレストランで、千四百万円以上、地元産を購入している。農業が主産業の地域。以前は、ぽーんと問屋さんに頼んでいたようですが、今は地元に還元できている。

 −もともとどういう施設だったのですか。

 ここは日本海側の交通の便の悪い所ですが、丹後ちりめんという地場産業があった。昭和四十年代は年間に一千万反近くを織り、国内生産の八割を占めた。どの町からもガッチャンガッチャンと機を織る音がセミが「うるさい」というほどしておったのに、一九九〇年代から急速に落ち込んだ。行政も住民も何とか代わるものをと、自然をいかした滞在型リゾート施設として、合併前の加悦(かや)町が一万五千平方メートルの敷地に九億円で整備した。最初は日本海にカニを食べに行く中継点として人気があったが、高速道路ができたために流れが変わり、燃料の重油の高騰も重なって負債を抱え、十年で倒産した。

 −なぜ引き受けることに。

 行政は指定管理でやる気のある人を募集した。活性化のために多くの住民が早く再開せよと願っていた。一方、われわれは、障害の重い人が地域で働き、暮らす場をつくり支援してきたが、九〇年代終わりから、ちりめんの仕事がなくなり、次々と障害の軽い人たちが福祉的な就労の場を求めてきた。それで、農家の規格外の野菜を漬物に加工したり、畑で九条ネギを作ったり。離職障害者の生活を保障できる仕事はないか、下請けのように障害者だけではなく、障害のある者もない者も一緒に働けるような、誇りが持てるような仕事はないだろうかと、みんなでどうしたらいいもんかと話し合っていた。そんなときに職員が指定管理者を募集する町報を見て、やってみようとなった。

 −結果は。

 温泉施設を経営する企業も含め三件の申し込みがあり、町はよさのうみを選んだ。どちらが町を元気にするかで判断した。議会で町側は「よさのうみは、どんな困難があっても逃げ出さない」と答弁し、傍聴していて涙が落ちた。ですが、否決され白紙撤回。翌年の町長選挙でよさのうみを指定管理者とする公約を掲げた候補者が当選して、われわれに決まったのです。

 −働いているのはどんな人たちですか。

 三十八人いて、障害のある人が二十三人。精神、知的、身体、発達障害です。当初はパートのおばちゃんが時給八百十円で、最低賃金をもらう(障害者総合支援法に基づく種別で)就労継続A型の障害者との差がわずかですから、「私たちの方がよっぽど仕事しとるのに」と不満があった。本音やと思います。やがて、パートのおばちゃんにしかできないことがあるし、A型の人でないとできん仕事もある。コンビネーションが働いて、お互い補完しあう。五年間で、その人の能力や障害、条件において役割が整理されてきた。だから、その人がいないと回らない。みんなが役割を果たすことで全体が何とか回っている。

 多い人で月に十万円、B型の障害者にも二万五千〜五万五千円と全国平均より多い額を支払っている。経験を積んで一般企業に就職する人も出てきた。

 精神障害でどの職場も長続きしなかった男性が、ここで五年間働いています。地域の人が「元気でやっとるか」と声をかけていく。僕ら分からんけど、ここに来るお客さんには「空気がやさしい」と言われる。何回も離職したり、家族と別れたり、つらい悲しい思いをしながら、乗り越えようとしたけど、また同じことを繰り返してしまう。そういう苦しみを経た人たちがここで働いてる。地域の人たちのまなざしで働く誇りが持てる。だから辞めずに続いている。

 プロにも恵まれて、東京都心のホテルで仕事をしていた方が親の介護で町に戻ってきていて働いてもらえた。料理人には毎日職員みんなで料理を食べて「料亭の味付けじゃなくて、野菜の味を生かした薄味に」と注文し続けました。年間延べ約六万人が足を運んでくれています。人口二万二千人の町からするととても大きい。老人会に親戚の集まりにと地域の人も使ってくれる。二〇一五年度、初めて黒字になりました。

 共同作業所や入所施設など、法人は二市二町に二十二の施設を抱えています。箱物づくりではなく、地域づくりだ、と理念を掲げていますね。

 今から六十六年前、小学校に地域初の障害児学級ができたのが始まりです。戦後の混乱で、あほうと呼ばれているような子どもは学校なんか行かんでいい、と言われていたころに、どんな子どもたちも教育から疎外してはならない、子どもが主人公の教育でなければならないという考えで進められた。中心になった教師の青木嗣夫は、戦争で学徒動員され大勢の学友を亡くした。軍国少年が、自分が受けた教育は間違いだったと気付いた。命は平和でこそ花開き、障害があろうとなかろうと一人一人かけがえがないのだと。

 −養護学校は十年、障害者入所・通所の総合施設は十四年、造るまでにかかりました。

 自分の子どもが交通事故で障害児になるかもしれんし、誰だって可能性がある。特殊ではなく家族のことととらえれば、地域の問題だということになる。

 でも、福祉に協力してバザーに品物を出してくれるような人も、総論賛成だが、近くに(施設を)造られるのは困ると。障害のある人は何をするか分からん、こわいというイメージが沈殿し、そういう本音ともぶつかりました。地域が障害のある人を理解するのは難しい。頭では理解できない。日々生活や姿を見る中でこそ理解できる。そういう努力を重ねてきました。だから、指定管理者に決まっても反対はありませんでした。ただ、人間ですから、たえず、そうでない考え方も入り込んでくる。

 −昨年の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件で、容疑者は「障害者は不幸しかつくれない」と考えた。

 寝返りすら打てない障害の重い人が多い私たちの施設で、十二年ほど前から京都府立看護学校の三回生が四日間、実習しています。みな障害の重い人と接するのは初めて。言葉もしゃべれんのに一緒に過ごすと価値観が変わる、と言う。人間のあったかみ、やさしさを教えてもらった気がする、と。仕事ができるかというと寝たきりで多くのことはできんが、その生きている姿から、学生さんは素直な目で見て感化される。これまで四百五十人ほどが触れ合い、この地域で看護師になっている。大きな意味があると思います。

◆あなたに伝えたい

 地域が障害のある人を理解するのは難しい。頭では理解できない。日々生活や姿を見る中でこそ理解できる。そういう努力を重ねてきました。

 <あおき・かずひろ> 1951年、京都府綾部市生まれ。地理の高校教師を志し立命館大文学部に進学。卒業後、団体職員をしていたときに交通事故にあい、後遺症に悩まされたのを機に、社会福祉法人化の準備を進めていたよさのうみ福祉会の作業所職員となり陶芸指導員を務め、81年に事務職員となる。会の礎を築いた青木嗣夫さんと、教師だった父親が師範学校の同級生で共に学徒動員を体験、戦後も毎年集うなど交流が続く縁があった。学生時代に大学間交流で知り合った嗣夫さんの一人娘で仏教大生、後に小学校教師になった伸代さんと80年に結婚し、2男1女をもうける。子どものアトピーをきっかけに、農薬を使わずに米作りを続ける。理事長は2013年4月からで2期目。

◆インタビューを終えて

 青木さんに出会ったのは「自然エネルギー学校」という連続講座だった。

 地域の資源でエネルギーを自給しようと各地から受講生が集まり、大江山連峰の懐にある青木さんたちの「リフレかやの里」でも間伐材チップをお風呂の燃料に使い始めた。重油の使用はゼロになった。

 一方、かやの里の管理者、藤原さゆりさん(54)は、働く一人一人と向き合う。自閉症の女性のこだわりに付き合い、脳内出血で半身マヒになった男性のリハビリと就職活動を励ます。「あの人たちがいるから、私たちの仕事もあるんです」

 ぶれずたゆまぬこまやかな人の歩みがつくる層を思った。(鈴木久美子)

 

この記事を印刷する

新聞購読のご案内

PR情報

地域のニュース
愛知
岐阜
三重
静岡
長野
福井
滋賀
石川
富山

Search | 検索