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あの人に迫る

伊藤陽一 「kuuki(クウキ)」の研究者

写真・淡路久喜

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◆危険な空気には水を差す勇気を

 法律でも道徳でもない。それなのに人々を動かし、時には無言の圧力となって同調を迫る「空気」。この捉えどころのない不思議な現象を解明しようと、社会科学の立場から研究しているのが、国際教養大大学院の伊藤陽一教授(75)だ。古今東西の実例を踏まえ「社会や組織に他人を強制する危険な空気が生じた時、対処する必要がある」と語る。

 −「空気読めない(KY)」が流行語になったのは十年前の二〇〇七年。排他的な語感があったが、空気に強くこだわるのは日本人だけでしょうか。

 日本では相手が何を望んでいるかを推測できないと「言わなくても分かれ」と非難されやすいが、欧米の文化は、建前上は空気を読む必要を否定する。「はっきり言わない方が悪い」「堂々と説明しろ」と。しかし、実際には相手の立場を推測し、場の状況に合わせなければならない場面は少なくない。

 英語の「read the air」は文字通り「空気を読め」。例えば葬式で冗談を言って他人を笑わせる人に「場をわきまえろ」と注意するような時に使う。特に言葉に出しにくい異性への求愛行動で相手との間にある空気を読むことは、欧米人も同じですね。

 −日本社会で「空気」と呼ばれているものが実は日本特有のものではなく、普遍的なものだと指摘する論文を書いて欧米の学会で注目されたそうですね。

 空気が生じる状況は対人関係、職場などの小集団、国全体などさまざま。英語の「air」は日本のように社会全体の空気を指さないなど違いもあるが、私の研究に「確かにそうだ」という反響があり、二〇〇〇年、英国で発行されたメディアコミュニケーション研究の辞典に「kuuki」という単語が採用された。ぴったりと合う英語はなかったから。将来は「tsunami(津波)」のように世界で通用するようになるかもしれない。

 −海外でも、その空気が作用したと考えられる出来事はありますか。

 国全体のレベルで挙げるなら、例えば〇一年の米国本土へのテロ攻撃への対応として米議会が承認した武力行使決議。反対した議員やアフガニスタン空爆を非難する決議を採択した地方市議会に抗議や非難が殺到した。古くは紀元前四一五年のアテネ。シチリア島出兵の是非を問う激論で大衆の人気を得た主戦派が投票に勝って遠征するが、敗北してしまう。反対派は結果を予想していたが、多数派に非難されることを恐れて沈黙するしかなかったという記録が残っている。こうした、ある特定の意見、政策、決定への賛同を求める「圧力を伴った雰囲気」が空気だと考えます。

 −空気に興味を持ったきっかけは何ですか。

 NHKを退職後、大学に戻ってマスコミが社会や政策に与える影響を研究したが、人々の態度や考え方を変える原因をより幅広く追究したいと思うようになった。当時、刺激を受けたのが山本七平氏(一九二一〜九一年)が書いた「『空気』の研究」(七七年、文芸春秋)でした。

 陸軍兵として戦ったフィリピンで終戦を迎え、捕虜となった山本氏は、太平洋戦争の開戦や戦艦大和の出撃など、現在から見れば無謀に映る決定の理由について、元軍エリートたちが「空気の存在」を挙げたことに強い違和感を覚え「“空気”決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ」と警告した。ただ、その解釈が日本論になってしまっている。古今東西の普遍的な現象として社会科学の立場から理解、説明したいというのが私の考えです。

 −どんな方法で空気を測定するのですか。

 空気を数量的に測定する方法は二つあります。まず第一に、日本では質問紙による調査で測れます。過去五年間、毎年数百人の学生を対象に「あなたは現在、反原発の空気があると思いますか」と質問し、数量データは問題なく集まりました。第二はマスコミの内容分析です。いくつかのメディアをサンプルに特定の政治的問題について「好意的か」「非好意的か」を点数化。これを足し合わせて数量的に把握します。例えば九〇年の国連平和協力法案の廃案のプロセスを調べてみると、有力紙の強い反対論調と世論の反対意見が一致して「反対の空気」をつくり、政権の判断に影響した様子がうかがえます。技術の進歩で将来はネットを含む膨大なデータを基にコンピューターが人々の意見だけでなく、不安、不満、感情などを数量的に測定できるようになるでしょう。

 −空気の働きには功罪の両面がありそうです。

 見る人の立ち位置によって評価は異なるが、もし組織のリーダーがメンバーのやる気を引き出すためや、目指す政策を遂行するために自ら空気をつくり出すことができるなら大きな武器になる。実際、郵政民営化を推し進めた小泉純一郎元首相は、空気を読むのも、つくるのもうまかった。

 米国では、平和や正義を求める空気が大きな力を持ったこともある。

 七〇年代の米国社会のベトナム反戦運動と、ニクソン米大統領を辞任に追い込んだ空気。特に反戦ムードを広げたのは、テレビが伝えた戦場の生々しい光景への視聴者の嫌悪や恐怖だった。政治指導者や軍事専門家にとって、ベトナム戦争は教訓になった。その後、フォークランドや湾岸、イラクで起きた戦争で生々しい映像の放送が厳しく規制されたのは反戦の空気が「屈服せざるを得ない圧力」に育つことへの警戒もあったと考えられる。

 −「和をもって貴しとなす」価値観が強い日本は、そもそも同調圧力が強いと思いますが、われわれは危険な空気にどう対処すればよいのでしょうか。

 山本氏も本の中で提案しましたが、やはり「水を差す」ことです。組織や社会は、水を差すことを非難しないこと、水を差すような意見にも耳を傾けること、水を差す言論の自由を保障することが大事。

 就職した教え子から相談を受けたことがあります。「会社が談合をやっていて怖い。けど断れない。どうしたらいいでしょう?」と。答えるのは簡単ではありませんでしたが、私は「最終的には社会のルールが勝つ。会社のやり方に水を差すことで一時的に不利益を被ったとしても、長い目で見れば、それでよかったと振り返ることができるんじゃないか」と答えました。

 組織が追求しがちな「合理的」であることには実は注意が必要。普通は良い意味で使われ、無駄はないが、絶えず人を利用し、最小限の努力で最大限の利益を得ようとするから。企業経営でも、合理性を追求して、どんどん食材の仕入れコストを下げ続けたら、質の悪いものに当たって食中毒を起こしたとか。従業員を働かせて競争力をつけようとしたら自殺者、過労死が出て、逆に社会からたたかれ損失を被るとか。合理性の追求が非合理を招いてしまうことがある。「常識」を疑うことは必要です。

 ただ、不用意に「水を差す」言動は嫌われるだけで終わってしまう。将来のことまで考え、反対することが最終的には組織のためにもなり、同僚から感謝される、という確信があるかどうかだと思います。

◆あなたに伝えたい

 反対することが最終的には組織のためにもなり、同僚から感謝される、という確信があるかどうかだと思います。

 <いとう・よういち> 1942年生まれ。神奈川県茅ケ崎市出身。専門は国際コミュニケーション論や政治コミュニケーション論、情報社会論。慶応大経済学部卒。NHKに入局し、米ボストン大に留学した後、研究者の道を選び、慶応大大学院法学研究科で博士課程修了。慶応大総合政策学部教授を経て現職。2009年に発刊された米国の百科事典で「ジャパニーズ・クウキ・セオリー」の項目を執筆。「kuuki」という概念を欧米の社会科学に導入した功績が認められ、同年5月に国際コミュニケーション学会(ICA)からフェローの称号を受けた。一般向けに分かりやすく解説した最近の著作として「空気と雰囲気をデザインする」(16年、岩波書店「生命デザイン学入門」所収)がある。

◆インタビューを終えて

 一九七三年、愛知県で女子高生の冗談から地元信用金庫の取り付け騒ぎが起きた。警察も一時捜査に動いたデマ騒動を現地で調べたのが、当時三十代だった伊藤さんだ。二年前、戦後七十年の取材(岩波書店「人びとの戦後経済秘史」所収)で、お会いした。騒ぎが起きたのは急激な成長を失速させた石油ショックの直後。「多くの人が『石油はなくなってしまうかもしれない』と思い込むような世間の雰囲気があった」。不安心理は、人々を危険な「空気」に導く恐れがある。ネットに玉石混交の情報が飛び交う時代だからこそ気を付けたい。(福田要)

 

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