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<恵みの水を 豊川用水通水50周年> 1部 歴史編(4)

東三河を日本有数の農業地帯に変貌させた宇連ダム=新城市で、本社ヘリ「まなづる」から(鵜飼一徳撮影)

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◆難題乗り越えダム完成

 一九五一(昭和二十六)年一月二十三日夜、当時の新城町の旅館の一室。農林省の豊川農業水利事業所の用地担当だった故・原田祥一=当時(48)=は、緊張した表情を浮かべていた。豊川用水工事に伴い新設される宇連(うれ)ダムにより、地区の一部が水没する三輪村川合(現新城市川合)の住民らとの非公式会合に臨んでいた。

 水没地域の権利関係者は家屋所有者が六戸、畑所有者が三十六戸、山林所有者が六十戸。地主ら約二十人は宇連ダム工事川合地区対策委員会を結成し、十項目の要求を突き付けていた。

 このうち「川合区に常時百名以上の収容力を有する工場を誘致」「水利事業で増収になる見積量1%を毎年川合区に対し五十カ年無償提供」の二点は、農林省にも受け入れられないものだった。この問題で交渉は半年間決裂状態にあった。

 川合区にも事情があった。「戦争からの引き揚げで人が増えたと同時に、食料難でちょうど畑を開墾したばかりの時だった。イノシシの被害がひどくて見張り小屋を建ててまで大事にしてきた畑。それが水の底に沈むなんて」。新城市川合の農家林光夫(91)は当時の住民感情をそう代弁する。

 しかし、豊川用水事業が国に認可されて一年四カ月。宇連ダム工事は着工しており、これ以上交渉を長引かせることはできなかった。状況を打開したのは原田の代案だった。

 切り札は「宇連ダム上流にある国有林の払い下げ」。前例や関連法がなく不可能に思われた案だったが、農業や林業に生きる人々の心には響いた。原田の日記には「対策委はこの案に理解を示し、これでようやく膠着(こうちゃく)状態から抜け出せる見通しがついた」とつづられている。その後、原田の尽力もあり、国有林野整備臨時措置法の制定が実現した。

生前の原田祥一さん=1985年ごろ、豊橋市の自宅で

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 その年の十一月二十七日、農林省は栃木沢の国有林約百四十ヘクタールの払い下げを決定。宇連ダムは認可から九年の歳月を経て五八年に完成した。

 豊橋市草間町の原田家には、ミカンの木がある。豊川用水の西部幹線が蒲郡市に延びた際に農家から感謝の印に贈られたものだ。原田の長女鞆香(ともか)(87)=豊田市和会町=は「父はばか正直だけど人付き合いが上手で交渉には向いていた。愚痴をこぼさない人で、私は用水のことは分からなかったけど、今では本当に誇りです」と話す。

 宇連ダムが完成して六十年。かつて水不足に泣いた下流の受益地は、日本有数の農業地帯へと大きく姿を変えている。

 (敬称略、五十幡将之)

 

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